みなさんは、皆さんは、マイケル・オアーというアメフト選手をご存知でしょうか?
映画 『しあわせの隠れ場所』にてその半生が描かれていますが、彼の人生は壮絶そのもの。
薬物(コカイン)中毒の母親からは引き離され、13人の兄弟の父親はすべて別々、
里子をたらい回しにされて、結果、ホームレス同然だったマイケルを
裕福な白人女性 リー・アン・デューイ が 一家に招き入れ、
愛情をそそぎながら、NFLのスター選手に育てあげたという嘘のような本当の話です。
そのエピソードの中でとりわけ印象的だったのは、
リー・アン が真冬にTシャツ・ハーパンで歩くマイケルを見ていられず、
家に招き入れたその日の、夫ショーンとの会話です。
自ら招き入れたはいいものの、
実際、マイクの素性も全く知らないこともあり
「盗まれていたらどうしよう」という不安になるリー・アンに、
夫のショーンはこのように言いました。
「全部盗まれたら、また買えばいい」
最低を想定して、その最低の事態を受け入れることでの覚悟が垣間見えます。
(腹を据えるとはきっとこういうことなのでしょう)
しかし、誰もがデューイ夫妻のようにこのような腹の据え方ができるわけではないと思います。
いったい、どうしたら、このような言動がとれるでしょうか?
それは、
「自分に余裕がある状態」を自ら作り出すこと
ではないでしょうか?
困っている人に手を差しのべるためには、
自分自身が「多くをもっている」必要があります。
(キレイごとはなしにして、ない袖はふれませんので)
よく例え話でお話させていただきますが、
プールいっぱいに水を湛えている人にとっては、コップ一杯の水を盗まれたところでどうということはありませんが、
コップ1杯しかない人にとって、コップ一杯の水を盗まれることは死活問題であり、平常心ではいられないことでしょう。
中には、デューイ夫妻のことを“偽善”だという人や、
金持ちだからできる道楽と揶揄する人もいたそうですが、
少なくとも私は、何もせずに批評をする側ではなく、
自らの選択肢を自ら生み出し、盗まれることも覚悟の上で「与える」ことのできる側の人間でありたい、そういう人間になりたいと感じました。
実話も素敵ですが、映画『しあわせの隠れ場所』 も非常に胸をうつ作品ですので、
お時間ある方はぜひ一度ご覧になってみてください♪
人事コンサルタント
金森秀晃